丸尾文六
遠江国城東郡池新田村(現御前崎市池新田)出身の実業家、政治家。
大井川の渡船解禁により窮乏した川越人足らを救うため、牧之原台地への入植を推進し、その結果、牧之原台地南部を茶の一大産地となるまでに育て上げま
した。
また、後年政界にも進出し、静岡県会議員、衆議院議員などを歴任しました。
丸尾文六の功績を称える顕彰碑
(菊川市丸尾原)
天保 3年(1832) 8月1日 | 池新田村(現御前崎市池新田)に生まれる |
安政 2年(1855) | 村方名主(現村長、町長、市長にあたる) |
明治 2年(1869) | 島田郡政所最寄総代 |
〃 | 金谷宿伝馬所取締役 |
明治 4年(1871) 6月8日 | 川越人足による牧之原への入植・開墾開始 |
明治 9年(1876) | 静岡県会議員 |
明治 11年(1878) | 相良港道路修繕、地頭方港の開港 |
明治 12年(1879) | 汽船会社「鴻益社(こうえきしゃ)」を設立 |
明治 17年(1884) | 県茶業組合取締所議長 |
明治 22年(1889) | 日本製茶会社設立 |
明治 25年(1892) | 衆議院議員 |
明治 29年(1896) 5月1日 | 死去(享年63) |
郡政所… 郡の地頭が領内統治のために設けた役所。
伝馬所… 公用の書状や荷物を出発地から目的地まで同じ人や馬が運ぶのではなく、
宿場ごとに人場を交代して運ぶ制度を「伝馬制」といい、人場の継ぎ立てを行う場所。
遡ること150年前。江戸時代の牧之原台地は、島田や金谷といった東海道の賑わう宿場町のすぐ南に位置しながら、雑木林や原野といった人の手が入ったことのない荒廃地でした。
慶応3年(1867)に15代将軍徳川慶喜は、大政奉還により駿府(現在の静岡市)に隠居することとなり、慶応4年(1868)に徳川慶喜を警護する目的で、中條景昭を隊長とした精鋭隊(新番組)が結成されました。
しかし、明治2年(1869)の版籍奉還により任務が解かれ、武士たちは突然、職を失ってしまいました。
そこで明治政府は、武士たちの救済策として未開拓地の開墾を奨励しました。旧幕臣に仕事の斡旋をしていた勝安芳(海舟)らの働きかけもあり、武士たちは不毛の地 牧之原に開拓を決意しました。
また、江戸時代より幕府によって、大井川には架橋が許されず、人々は川越人足の手を借りて渡河していましたが、時を同じくして、明治3年(1870)に明治政府が大井川の渡船を認め、川越制度を廃止したことにより、島田宿や金谷宿の川越人足たち約1,300人が職を失いました。
人足たちの救済措置として開墾事業が実施されることとなり、元金谷宿世話人である池新田村(現在の御前崎市)出身の丸尾文六たちが開墾計画を立案し、明治4年(1871)6月8日に開墾を開始しました。
しかし、明治11年(1878)、士族たちの生活は開墾手当の廃止等により困窮を迎え、1878年時点で215人いた士族は、5年後には118人、その後牧之原台地から姿を消しました。
撤退した士族たちの土地は、村々や農民、地元有権者が買い取り、茶園として再生し、現在の牧之原大茶園に至っています。
幕末の頃、茶はアメリカへの重要な輸出品でした。明治時代の前半、アメリカへの輸出茶の60〜70%が横浜港から出荷され、その半分が静岡県産の茶だったそうです。
茶が輸出の花形産業となった状況を踏まえ、丸尾文六は地頭方港を開港し、その港に繋がる道路を整備して地域の茶を集め、港から船で横浜港に直接運べるよう、汽船会社「鴻益社(こうえきしゃ)」を創立しました。
丸尾文六と川越人足による開墾から始まった茶作りは、製茶や輸出についても学びながら、茶という産業を地域に根付かせた結果、牧之原台地が茶の一大産地として知られるようになりました。